「自分は前に進んでいるのだろうか?」
これは、遅くなった日の夜などに、たまに心に浮かぶ問いです。
気づけば別居生活も3年目。自宅を出た開放感からの高揚はとっくに薄れ、現実が取って代わります。自分で選んだこととはいえ、やはり一人は寂しいもの。かと言って宙ぶらりんの身ですから、パートナーを探すわけにもいきません。次の人生への見通しも立ちません。
離婚訴訟で相手は、夫婦関係はまだ破綻していないと主張しています。もし裁判所がそれを認めてしまったら、私は多額の婚姻費用をさらに何年も払い続けることになります。そして何より、人生をやり直すための時間もそれだけ失ってしまう。
もちろん、十分な離婚事由を相手が作ったと私は思っています。それでも時には不安になります。このまま離婚できなかったらどうなるんだろう、と。
孤独の中で感じた「静かな痛み」
別居を始めた当初は、正直ホッとしたものでした。
いつもお互い目も合わさず、けれどもひとたび口を開けば争いになってしまう日々から抜け出せたことは、精神的な安定につながったからです。
しかし静けさに慣れると、次にやってきたのは「孤独」でした。
若い頃に多くの時間を過ごした仲間も、いまや家庭やパートナーを抱えています。気軽には会えません。また、働き方改革が進んだいま、職場に居残ることも難しくなりました。かと言って飲み歩くお金の余裕はありません。
俄然、自室に一人でいる時間が増えます。「夜の音のなさ」が、やけに耳に残ります。
そうしたときは決まって、同居していたときのことを考えてしまいます。今の状況は回避できたのではないか。もっとうまく立ち回れたのではないか。そもそも家を出たのも、自分の我慢が足りなかったのではないか。葛藤は止まることがなく、1Kのアパートが広く感じられます。
手に入れた「自由」は本当に幸せか?
別居して確かに「自由」を得ることができました。
夜中に酒を買いに出かけても文句を言う人はいない。お金の使い方も自分次第。
家の中は散らかそうが、何をしようが、全てが自分の思いのまま。
でも、そんな“自由”に慣れたころ、自分でも驚くほど感情が薄れていることに気づきました。
嬉しいことがあっても「誰かに話したい」と思う相手がいない。
困ったことがあっても「相談したい」と頭に浮かぶ相手もいない。
結局、妻との生活で感じていた孤独は、別居しようとしまいと消えないのです。
未来と向き合うために
では別居しない方が良かったのでしょうか?「そんなことはない」と自信を持って言えます。なぜ感情が薄れていたのでしょう。5年間の相手との暮らしでそれを失ったからです。なぜ孤独を感じたのでしょう。この月日で、自己肯定感がズダボロになっていたからです。
家を出るまで、私は負の念にまみれた家庭からの救いを仕事に求めていました。それがどんなに本末転倒なことか気づかないほど、参ってしまっていたのです。
自分が転んだことに気づかないうちは、人は立ちあがろうとはしません。気づいたとしても事態が好転するのを期待するだけで伏せたままの人は、いたずらに時間も機会も失っていきます。
相手に見切りをつけたのなら、共同生活を続ける理由はもうありません。もっと早く決断すべきだったとすら感じます。
同じように悩むあなたへ
もし、この記事を読んでいるあなたが、離婚で悩んでいるなら、私はこう伝えたいです。
「苦しさを抱えているのは、あなただけじゃない」と。孤独ではありません。
そして「答えは一つじゃない」とも思います。
離婚を急ぐ必要も、世間の声に惑わされる必要もありません。
大事なのは、今の自分をきちんと見つめて、心の声に耳を傾けること。
ただし、その後の行動は早い方がいいと思います。関係修復を目指すなら一刻も早く相手と対話し、離婚するならその手段を講じる。現状維持は何にもなりません。
自分と向き合うことができれば、人生はまた動き出す。
それぞれにとってのベストな選択が何なのか、考える仲間にこのブログで出会えたら嬉しいです。
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